目次
【クズみたいな授業態度】+【一生懸命でマジメな練習態度 】という非常に極端な高校1年生〜高校3年生の夏でしたが、7月に最後の大会で負けてしまった日が転機の日。
僕は高校1年生から決めてました。野球部を引退するその日から、勉強をスタートさせると。(もっと早くからやればいいのに、どうしても区切りをつけたくなる性格。笑)
そして、もう1つ高校1年生のときから決めていたことは大学受験のために【浪人する】ということ 。高校1年生から浪人決めてるってどういうこっちゃい!って感じなんですけどね。笑
しかしどう考えても、1年目の僕の学力では東大どころかどこの大学にも受からないというのはアホな僕でも分かったので浪人前提で考えるようになりました。
高校1年生からスタートし
赤本を全く解かない
やまもとってアホなん?
ってよく言われました。それは、大学受験生なら必ず受験前に解く『赤本』を高校3年生の受験時に一問も解かなかったということに対してでした。
普通に考えたらおかしいんですよ。でも、浪人前提に考えている僕からすればそれは当然の選択肢だったんです。(カッコつけてるけど本当は現役のときからやるべきですw)
皆さんすでにご存知の通り僕は高校に入ってからまともに勉強をしていなかったので、本来であれば高校1年生のときに知っておかなければならない数学の公式や、英文法など全く頭に入っていませんでした。
夏なんていったら受験でいう天王山。春までに基礎を固めておいて、夏から受験に向けて本格的に問題を説いていくのが普通なんです。
でも僕は全くそのペースについていくことが出来ません。数学の授業中に刺されて当てられる問題なんてちんぷんかんぷんです。そこで僕はとある意思決定をしたのです。
それが、【無理に今できない問題を解こうとするのではなく、高校1年生の教科書の基礎問題から全てやり直す 】というものでした。
基礎からはじめると
少しずつ勉強が楽しくなる
そこからというもの、他の友だちは二次試験用に難しい問題を毎日解いていくのに対して、僕は高校1年生がやるような
- 数学の公式の証明
- 古文単語
- 英文法(ネクステージ)
- 英単語の暗記
などなど本当に基礎の基礎から始めていきました。授業中は、基本的に難しい二次試験用の問題を解くことが中心だったので、当てられたときだけその問題に答えて、
それ以外の時間は全て自習です。(先生ごめんなさい)限られた時間の中で少しでも基礎学力をつけてから、河合塾での浪人生活に入りたかったんです。
でも、そうやって目標をもって勉強すると高校1年生のときには感じなかった勉強の楽しさ が段々分かるようになってきました。
数学の公式の証明なんてどうしてするんだろう?と思っていたのに、実際に問題を解くときに公式が使えるかどうかは、
自分がその公式をちゃんと理解しているかどうかが関係していると分かりました。
英単語や古文単語(ゴロゴで覚えてた)を一生懸命に暗記すると今までは、古代文字でも読んでいたような英文古文が読めるようになってきて、その話自体も楽しめるようになってきたのです。
野球部をやっていたときには勉強に対して苦痛しか感じなかったのに、あれ?勉強って楽しいな〜!って少しずつ思えるようになったことはとても嬉しかったですね。
絶対に受からないのに早稲田や
名古屋大学/横浜市立大学を受験
僕の高校時代の気が狂った受験方法は、1年目の大学受験を完全に翌年の東大受験を想定して練習台に使ったということです。
具体的には、愛知県でトップの大学である名古屋大学と早稲田大学、僕の兄と姉が行った横浜市立大学を受験しにいきました。
今書いていて思い出したのですが同級生の友達からの目がすごく痛いものだったきが……笑
だって、友達からすれば『志望校に受かるか受からないかの真剣勝負』なのに、今まで全く勉強をしてこなかったような僕が『今年は練習なんだよね〜』と言ってるんですから。
今、僕の目の前にいたらどついてやりたくなるぐらいムカつきますよね。笑
ある種、そういうところで人の目を気にしないというかそんな面はあったかもしれません。他の人が何といおうとこれは自分の人生なので自分が良いと感じたことをする みたいな。
だがしかし、当然受験会場にいってテストを受けていても全く何もわかりません。笑 特に名古屋大学と早稲田大学のときは数学で大問がドーンドーン!と出てきたんですが、暇すぎてすることがありませんでした。笑
だから、早稲田大学の商学部のときはベクトルの問題に対してひたすら、展開→まとめる→展開→まとめる の作業をずーっとやっていた気がします。(←アホwww)
今思えば、そんなふざけた?感じにも関わらずそのように受験させてくれたし、浪人もさせてくれた父親と母親に感謝です。
突然狂ったように、勉強もしないのに東大に行くんだ!と言って、さらに「今年は東大を受験する練習したいからお父さんの母校の名古屋大学も受けるから!」と伝えても、反対することなく応援してくれました。
想定の範囲内通り
1年目はどこにも受からない
1年目の大学受験で僕が感じたのは、本当に僕は学力がないんだなということです。
滑り止め?学力テスト?で受けた、地元の私立大学もどこにも受からずに清々しく浪人することが決まりました。
僕の地元愛知県豊橋市には、駅の近くに河合塾があるんですよ。そこが僕の思い出の場所です。
今でも豊橋にかえったときはたまに顔を出しては、当時いたチューター(今も加藤さんや竹中さん中川さんいるのかな?)に挨拶しにいきます。
そんな河合塾は、時習館高校の4年生と言われるぐらい時習生が多かったんですよね。学校の風潮もあるでしょう。
現役で中途半端なところに行くよりも、浪人してできるだけ良い大学に進学したほうが良い!という雰囲気が学校全体にありました。だから、たしか学年の3分の1ぐらいは浪人してたかな?
それもあって僕は河合塾で浪人することになったのですが、まさか初っ端から壁にぶつかるとは思いませんでした。
『東大に行きたい!』と伝えた
反応が全く違った 高瀬さん
河合塾の浪人生のクラスは、学力別に4つに分けられます。1番上が、東大京大クラス。いわずもながな、東大や京大進学を目指すトップクラスの人たちがいるクラスです。
そして2番目のクラスがTクラス。トップのTだったかな?忘れたけど、東大や京大ではないけれど、早慶上智や、その他レベルの高い国公立大学に進学を目指すクラス。
そして、3番目のクラス4番目のクラス……と分かれるんだ!ということを河合塾に入塾するときに、当時まだいた高瀬さんというキレイな仕事のできそうなチューターさんに教えてもらいました。
その高瀬さんとの初めての会話はとても鮮明に覚えています。今までの人とは全く違う反応をしてくれた人だったんですよ。
志望校はどこですか?今年1年の目標は?と聞かれたときに親や友達に言ってきたように『ぼく、東大に行きたいんです。そのために現役生活では、〜〜というように受験をしてきました。』と高瀬さんに伝えました。
過去、その話を自分以外の人に伝えると大抵が
- バカにする
- 秒速で「無理だよ」という
- 「頑張ってね!」と軽くあしらわれる
のどれかだったんですけど、高瀬さんは違いました。
真剣に僕の話を聞いてくれて、東大に合格するために必要なプロセスを具体的に教えてくれたのです。
そして
「山本くん。東大に行きたいのであれば、今度やるクラス分けテストで『東大京大クラス』に入ることが必須だと思います」
と伝えられました。
東大や京大は、二次試験で日本史も世界史も両方とも必要になってくるのが、他の大学と違う点だったんですよね。
数学や英語などはTクラスも東大クラスも同じだったんですけど、社会だけは別途クラスが用意されていました。
その説明を受けながら、今までとは全く違う反応、そして説明をしてくれる高瀬さんに感動を覚えました。
しかし同時に、過去に味わったことがない感情になったのです。
クラス分けテストで
現実に直面する
東大に進学するためには、まずクラス分けテストで東大京大進学クラスに入ることが大事!と言われて望んだ試験。
たしかに、受験勉強をはじめる前よりは分かる問題を増えていますし、そのとき自分ができる精一杯のことはしました。
「東大は無理でも、Tクラスには入りたい……」
と思ってもらったクラス分けの結果は
上から3番目のクラス
(下から数えたほうが早い)
でした。東大クラスでもなく、Tクラスでもなくさらにその下のクラスです。その結果をもらったときに僕は言葉を失いました。
もっと出来ていただろーーー!という意味ではなくて、本当にこれが俺の実力なんだなと。全力で頑張ってみた結果がこれなんだなと、現実に直面したのです。
あなたはそんな経験ってしたことがありますか?
ビッグマウスで大きな目標を掲げていて、自分の立ち位置を知ったことに大きな衝撃を受ける経験。
下から3番目のクラスでスタートするということは、「お前には東大は無理だから、諦めろよ」と感情論ではなく論破された気がして僕はドンドン辛くなっていったのです。
諦めたくない!!
でも自分で自分を追い詰める
クラス分けテストが終わり、浪人生活が始まってから4月の終わりにかけてまでの2ヶ月間が人生で一番つらかったと言ってもいいでしょう。
高校1年生のときに掲げた「東大に行くんだ!」という目標。これは、東大ブランド手に入れたい!というよりも、
不可能だと思うこと/周りが無理だと思うことに挑戦しても、諦めずに努力を続ければ必ず願いは叶うんだ!ということを証明したかった からなんですよね。
これが僕にとって一番大きな動機でした。だから、周りがどれだけ反対しようが別に僕のメンタルがやられることはありませんでしたし、むしろウェルカムですよ。笑
しかし、なぜ僕の精神が崩壊しそうになったのかというと……僕が東大に行く!というのを自ら撤回するということは
自分の考える信念は間違いである
人生は運命が決まっている
願ってもかなわない
自分には才能がない
ということを認めるようなものだったんです。これが僕には本当に辛くて辛くてたまりませんでした。
自分を生んでくれた両親には非常に感謝しています。しかし、上記のことを認めてしまうということは、自分の成果が出ないということを親のせいにしてしまうことと同義になってしまうと思ってました。
それは嫌だと。自分の人生の結果は全て自分が背負いたい。でも、明らかに今の自分では達成することが限りなく不可能に近い……とんでもなく辛かったですね。
将来の自分に書いた
悲痛なメッセージ
僕は浪人時代、毎日ノートをつけていたんですけれどもちょうどこのときですね。めちゃくちゃ辛そうな19歳の僕。笑
東大を受験するために必要となってくる世界史は、他の大学を受けるときには必要ありません。
もし東大を受けるなら使うし、受けないなら使わない。使わないなら勉強時間の無駄。
どこかのタイミングで「これは東大無理だな」という判断がされてしまった場合、独学で勉強した(東大クラスに入れなかったために)世界史に費やした時間が無駄になってしまうんじゃないか……そういう葛藤をしていました。
同時に、河合塾の優秀な講師たちに「いまの学力じゃ無理だ」ということをたくさん言われたので気が滅入っているときだったと思います。僕の浪人ノートの一番最後の方に書いてありました。
将来の自分へ(本文ママ)
今僕はとてつもなく悩んでいます。まず、将来のことです。将来社長になるために本当に東大に行く必要はあるのか?という質問に返答をすることができません。でもこれで諦めちゃっていいのかどうかわかりません。東大だけに必要な世界史を勉強して第13講が終わった時点で志望を変えたときにその時間は無駄な時間になるんでしょうか。あれだけ行きたいって思っていた感情が、もう僕には無いような気がします。これは一時の感情なんでしょうか。どうれすればいいんですか?志望下げて受かりますか?でも今の僕の背中には東大という言葉がすごく重くのっかかかってきます。ただ講師にきつくいわれただけで揺らいでしまう僕の感情、気持ち、信念、しょせんこんだけの奴なんでしょうか。明確な目標がないとやっていけません。
よく恥ずかしげもなくこんな文章出せますよね。でもこういうのって、残しておくと本当に面白いです。笑
このときは、野球部の経験があったからこそ「社長になりたい!」という思いもあったし、東大に行くんだ!というどちらの気持ちもありました。
しかし、当時のやまもと君は葛藤しています。果たして、今東大のために勉強することが自分が社長になるために必要なのか?
でもかといって、今目標を諦めてしまっていいのだろうか。一度大きく掲げた目標を下げることによって自分の何か大事なものが崩れてしまうんじゃないか。
でも、でも……今の状態のまま実るかどうか全く分からない目標に向かって努力するということができない。
いましている勉強が果たして自分の将来に繋がっているのかどうか分からない。
そんな葛藤が書いてあります。そしてそんな昔の僕にいってあげたい。
10年後のやまもとは、そのときに葛藤していた経験があったからこそ最高に楽しい人生を楽しんでいるよと。
父の一言が僕の人生の
ターニングポイントとなる
当時はまだ実家ぐらしだったために、父と母と一緒に住んでいました。僕の父は豊橋西高校の先生で、進路部長もしていた経験があったんですよね。
時習館高校に通っていたときから、雨の日は父のエスティマ(トヨタの車)に乗せてもらい高校まで送ってもらっていました。(ありがたし……!)
父は車にのるときに音楽をかける人ではなかったので、雨の日は親と子どもがゆっくり話せるいい時間だったと思います。
僕には反抗期というものがなく、積極的に親と話をする高校生でした。この映像でも父は言ってくれていますね。(動画慣れしてなさすぎて、棒読みがすごい。笑)
高校1年生のときの「東大に行くんだ!」という話から、高校3年生の「練習で受験を受ける!」という話など、様々な話を嫌な顔をしたり否定などせずにウンウンと聞いてくれていた父。
進路部長をやっていたのであれば、僕の立ち位置がどれほどのものかも分かっていたはずのなのに「無理だから諦めなさい。他の志望校にしなさい」と言われたことはありませんでした。
亡くなった今では聞くことはできませんが、あのときはどんな心境で僕の話をきいていたんでしょうね。遺言もなしに2017年に逝ったのでも少し詳しく聞いてみたかったな。
そして、河合塾のテスト結果が出てから2ヶ月間ぐらい僕の元気がなくなったのも父は感じ取っていたと思います。
いつもどおり雨のために送り迎えをしてもらい、車内で色々な話をしたその日の夜だったかな?
僕の部屋(4畳半)に、父が何か事務的なことを伝えに来たときに僕はベッドで横たわっていました。
そしてきっと不安やつらい気持ちが顔に出ていたのでしょう。父はどうした?と聞いてきました。
高校1年生のときから自分が偉そうに目標を掲げたのに、弱音なんて絶対に親には吐かないぞと決めていたんですがこのときポロッと出てしまいました。
「お父さん、実はちょっと辛くてさ」
と。こうやって自分の弱いところを人にみせるのって怖いですし、勇気いりますよね……。
そしたら父は、僕の勉強机の前の椅子に座って話を聞く体制をとってくれました。
それで気が楽になったのか僕は寝転がりながら天井を見上げ、涙でよく見えなくなりながらも自分が抱えている葛藤をゆっくりゆっくりと話していきます。
自分がいま辛くてしょうがないこと。勉強が手につかないこと。自分が掲げた目標を取り下げることが怖いこと。それをしてしまったら、自分で自分を否定してしまって精神が保てそうにないこと。
ドンドンと溜まっていたものが溢れ出るように、僕は父に悩みを話していきました。
父は、間に言葉を挟むことなく「うんうん」と静かに僕の話を聞いてくれて僕が話を終わるのを確認するとゆっくりと口を開きました。
そして、僕が一生忘れることのできない、そのときほしかった言葉をかけてくれたのです。
しゅうへい。(僕の名前)たしかに、自分が立てた目標を達成することも素晴らしいことだし、称賛されることだよね。
でも、一度たてた目標だったとしてもそれを『自分が再設定すること』も勇気がいることだよね。今の自分にあった目標を設定しなおしてもいいんじゃないかな。
という僕に言ってくれました。僕はこのときのことを一生忘れることはありません。(今思い出しながら書いているんですけど、ティッシュで目を拭きながら書いてます。笑)
目標を下げて再設定すること
=悪いこと=やっていはいけないこと
と僕は考えていて、自分が立てた目標に押しつぶされそうになっていたのですが、この父の言葉によって
「目標の下方修正をしても良いんだ!」
ということが腑に落ちたのです。そしてそれをすること自体が悪いことではなく、建設的に前に進めることなんだということが分かりました。
この出来事を通して、元々尊敬していた父のことをさらに尊敬するようになりました。 2017年10月6日が父の命日でその翌日と翌々日が通夜と葬式だったのですが、そのときにもこの出来事を思い出しました。
志望大学を兄と姉が行った
横浜国立大学へ変更
この後、そのまま父と話をして兄と姉が卒業した横浜国立大学へと志望校を変更することにしました。
結果論としては、兄と姉がいった同じ大学だという話になるのですが、それが一番の理由というわけではなく
- 経営学部があり将来に繋がりそう
- 憧れの関東進出できる
- 浪人生活を死ぬ気で頑張れば達成できる目標
という理由から決めました。特に一番最後の理由が大きいですね!
今の自分のままでは難しいけれど、一生懸命に努力したらなんとか達成できるぐらいの目標に設定できたのがとてもよかったと思っています。
現役時代の僕のセンターの点数は55%だったんですが、その点数を80%〜85%に上げることができれば合格するかもしれない……そんな目標でした。
これ、今思うとめちゃくちゃ大事だなことだったなと思います。
今の自分では難しいけれど、努力したら達成できそうなぐらいの目標設定。これをすることで、その後の毎日の過ごし方が変わってくるんですよ。
この日を境に僕の浪人生活は、地獄から天国へと変わりました!毎日が辛くて辛くてしょうがなかったのが、本当に楽しくて最高な1年間となったのです。
僕がどんな浪人生活をしていたのか?というのは次回お話しますね。この浪人生活の過ごし方をパッケージ化して販売してもいいんじゃないか?ってぐらいこだわりをもって取り組んだので、あなたの参考になるかもしれません。笑
<本日のコメント>
あなたを救った人や
言葉はありますか?
さて!本日の内容はいかがでしたか?感極まって記事を書きながらポロポロないてしまいました。笑(2021年3月14日)
起業した後に倒産しそうになって苦しいときは何度もあったんですが、人生で見たときにこの浪人時代よりも苦しくはなかったんですよね。
それぐらい僕にはつらい時期だったのが浪人の初期でした。しかし、父のおかげで救われて本当に良かったなと思います。
自分1人の力では立ち直ることは出来なくても、誰かとの出会いや言葉によって大きく人生が変わったりしますよね。 本当に素敵なことだなと思います。
この先も、僕は様々な人/先生のアドバイスによって軌道修正をしてもらう のですが、いずれもそれまでの自分では出来なかった選択肢をとれたり、意思決定をすることができるようになりました。
この記事を読んでくれているあなたに、僕がそのきっかけを与えることができればそれは何よりも耐え難い幸せですし、そうじゃなくてもあなたにとって良い出会いがあることを願ってます。
ということで、本日のコメント欄には「あなたが辛かったときに救ってくれた人や言葉」 があったら是非教えてほしいです。
自分で立ち直るのが難しくても、誰かに助けてもらったことってありますよね。コメント楽しみにしています!それでは、次回は浪人生活編へ!
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やまもと社長
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